妊活の体験談

【体験談022】30代前半で二人目不妊に。治療に非協力的な夫にストレスを抱えながらも努力の結果二人目妊娠に成功!

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今回は30代前半で妊活を開始された方の体験談をご紹介いたします。

二人目妊活時に男性不妊が原因で不妊治療を始められたそうです。旦那さんの理解が得られず治療がなかなか進まなかったり、ストレスを抱えることも多かったそうですが、諦めない努力の結果無事に妊娠されています。

ぜひ最後までお読みください。

プロフィール

名前:Mihoさん(仮称)

妊活時の年齢:30代前半

妊活期間:約1年間

不妊の要因:精子の運動量が低い

不妊治療:タイミング法、投薬治療、人工受精(パーコール法)

治療費:不明

突きつけられた二人目不妊という現実

私たちはいわゆる「二人目不妊」と言われる部類の不妊治療経験者です。誰かの参考になれば幸いと思い、私たち夫婦の不妊治療と不妊治療に至るまでの夫婦の姿をお伝えしたいと思います。

夫婦について

まずは参考までに私たち夫婦のスペックを紹介します。

結婚は28歳の時。第一子は30歳で出産し、第二子は33歳の時に生まれました。第一子妊娠時は共働きで、出産を機に退社、専業主婦になりました。同い年夫婦です。

不妊治療に至るまで

~第一子のこと~

一人目の妊娠は夫との会話で「そろそろ子どもが欲しいね」となり、さっそくチャレンジしたその月に見事一回で授かることが出来ました。また有難いことに妊娠中もこれといった問題もなく、出産時には緊急帝王切開にはなったものの、妊娠においては何もハードルがなく終えることが出来ました。

なのでこの自分が数年後に不妊について必死にネット検索する…なんてことは当時の私には全く想像できなかったのです。

30歳で出産した第一子は破水から始まり、最後に旋回異常となったため緊急帝王切開となりました。なので、医師からは「子宮を回復させるため次の妊娠までは必ず1年あけてね」と念を押されました。念を押されなくても初めての子育ては分からないことだらけで毎日てんやわんや、気が付けばあっという間に1歳を迎えたという感じでした。

その誕生日会の夜に「そういえば1年経ったのか。次の子を妊娠してもいいのか。」とふと思い出したくらい、しばらくは第二子への意欲はありませんでした。

今思い返すと「どうせまたすぐ妊娠できるだろうしな」という傲りもあったんだろうなと思います。

~第二子のこと~

一人目が男児だったこともあり、次は女児を希望していました。

年齢も既に30代に入っていたということもあり、また帝王切開で一人目を出産しているため、良くても子供を産める(帝王切開出来る)チャンスは2回しか残っていないという理由から産み分け指導をしている病院に通い、女児産み分けをしようということになったのです。

そして迎えたパーコール法による産み分け一回目。結果は失敗。

翌月二回目。失敗。

そのまた翌月三回目。失敗。

このあたりで「あれ?」という不安が心を襲いました。

一人目があまりにもスムーズにできたものだから、今回も楽勝でしょ!と心の中で思っていたのです。そして先生からも「三回連続で失敗すると何か妊娠出来ない理由があることが多い。詳しい検査をしましょう。」と言われ更に不安が増していきました。

男性不妊

すぐに私の経血と夫の精子の検査が行われました。

結果、私(母体)には何の問題も見当たらず、どうやら夫の精子に少し問題がありそうだということが分かりました。男性不妊の可能性を指摘されたのです。そして専門機関でより詳しい検査をするため再度夫の精子を採取し提出しました。

数日後、「専門機関から結果が返ってきたから報告がしたい。」と病院から電話があり、すぐに向かいました。

結果は「夫の精子の運動量が極めて低い」ということでした。

「この数値を下回ると自然妊娠出来る可能性が低いので人工授精(顕微授精)をしましょう」と設けられている目安があるのですが、夫はそのボーダーラインすれすれのところだったというのです。ぎりぎりそのラインを下回らなかったものの、これが原因でおそらく妊娠が成立しづらいのではないか、とのことでした。

そもそもパーコール法は人工授精ですので、私たちの場合は精子を直接膣(子宮)に届けても精子に元気がないから受精する前に死んでしまっていたというのが理由だったようです。

すぐに夫の治療を始めようということになりました。

不妊治療の現実

ここからがとにかくとにかく大変でした。

どうも世の男性は不妊の原因が自分にあるということを中々受け止めることができないように感じます。そして夫ももれなくその一人でした。受け止めることが出来ないというか、妊娠や出産において、どこか他人事のように捉えている男性が多いように感じます。

妊娠は女性主導・男性主導とか関係なく、二人そろっていないと成立しないものなのに、女性にかかる精神的・肉体的負担が多いように思います。妻や彼女の生理日をしっかり把握出来ているパートナーはどれだけいるのでしょうか。

夫に検査結果を伝えるとまず返ってきた言葉は「そんなの嘘に決まってるだろ。不妊治療はお金が稼げるから医者が嘘言ってるんだよ。」でした。その言葉を聞いた時「あぁそうきたか。どうしよう、早く進みたいのに。こんなところで足止めされてる暇はないのに。どうしたらいいんだ。」と結果を受け止めてくれない怒りよりも焦りが強かったことを今でもよく覚えています。

一人目をスムーズに妊娠出来た私たちが3回の人工授精をしても妊娠出来ないこと、そして検査を重ねたらどうやら精子に理由があるということ、を何度も何度も説明しほとんど無理やり説き伏せました。

精子運動量に効くと処方された薬を朝昼晩3回飲んでほしいということ、それに加え体を温める漢方(こちらも処方されたもの)も夫婦二人で飲んでいこうと伝え、とにかく二人で頑張っていこう!と夫には話しました。

元々夫は家で朝ごはんを食べません。朝おにぎりを握ってあげ、会社に着いたらそれを食べるという習慣がありました。ですので、毎朝のおにぎり・水筒の準備に加え、その日飲む薬の用意をするというのが私の日課となりました。加えて会社に着いたであろう時間にLINEし「薬飲んでね!」と念押しし、昼休憩に入ったタイミングでも「薬飲んでね!!」とLINEし、飲み忘れがないように工夫をしていたつもりでした。

そしてもちろん夫も頑張って飲んでくれていると信じていました。

迎えた次の人工授精(パーコール)の日。精子の検査も併せてしてもらいました。「精子の運動量も少しは良くなってるはず!もしかしたら今回妊娠成立するかも!」と少しわくわくしながら結果を待ちました。

2週間後、そのわくわくをしっかり打ち砕くように生理がきました。そして病院からは精子の運動量も全く良くなっていないという悲しい結果も返ってきました。ダブルパンチです。そしてその翌月も同じ結果になりました。

ここまでで5カ月間に渡る人工授精(パーコール)の失敗、そして精子の質が全く良くならないという結果に私はとても疲れ切っていました。

そんな時、上の子の存在が私の支えでもあり、そして辛い思いをしてまでも治療をするべきか?を考える存在でもありました。上の子はまだ1歳半、とても手のかかる年ごろですし、可愛いの盛りの時期です。余すことなく両目でその成長を見守りたいのに、なにか心ここにあらずの状態になっている自分に疑問を抱くことが増えていきました。

こんなに可愛い子がもう一人我が家に来てくれたらいいなぁという思いと、こんなに可愛い子が既にいるのに、まだ来ぬ結果に必死になるべきなのか?といつも自問自答していました。1歳半の子供を連れての病院通いはとにかく大変だったことも悩む理由の一つでした。もちろん私の中で答えは出ませんでした。

夫婦で協力できない虚しさ

そして、5カ月目の結果が出た晩、疲れ切っていた私は夫に相談をしました。

「このまま治療を続ける?なんか私疲れちゃったよ。いつ結果がでるとも分からないことに対してお金をかけて、時間をかけて。病院に行くときに1歳半の子供を担いで行って、遊びたいと泣いて暴れまわるのをなだめている時、何やってんだろって思うんだよ。」と胸の内を話しました。

すると、「そもそも俺が不妊なんていうことが嘘なんだから、治療を続けるかなんてこと悩むこと自体がおかしいんだよ。だって不妊じゃないんだから。」と言われたのです。

その答えを聞いた時、何でこうも夫婦で向かうベクトルが合わないんだろう、ということと、この人さては薬飲んでないな、いうことが頭をよぎりました。そしてそのまま私は夫の通勤カバンをチェックしました。すると出てくる出てくる飲んでいない薬たち…机の上に出来た薬の山を見ながら「なんだ、私一人だけで頑張ってたんだ。夫も次の子が欲しいって言ってたのになぁ…」と怒りよりも虚しさが心を占めました。

その日を境に私は夫に不妊治療の理解を求めることをやめました。もう薬も飲ませない、夫には何も期待しないというスタンスに変えました。一方的に強く色々なことを求めすぎていたなと思ったからです。

思い切ってやめた不妊治療

でもやっぱり子供は諦めたくはありませんでした。

なので自宅でできる私主導の療法、具体的には食事を完全に和食にしたり、家族みんなでお風呂にはいって強制的に毎晩湯船に浸からせたり(夫はシャワー派)、晩酌のおつまみは生殖機能にいいとされる胡桃にしたり、夫婦でダイエットしたり…書ききれないですが、色んなことを少しずつ変えていきました。

そしてもう一つ決断したことは病院を変えたということです。元々産み分けで通い始めた病院であったので、それを不妊治療に力を入れている病院に移ることにしたのです。

新しい病院に行くとなると、もちろん検査は一からやり直しです。

先生からは夫の精子の検査もしたいと言われたのですが、夫からなかなか理解を得られません。検査のために精子が必要だということを伝えるだけでも今の私にとってはストレスになるということを先生に伝え、どうにか私の体調を今よりも万全にして、一縷の望みをかけてタイミング療法で授かりたいことを伝えました。先生は微笑んで「分かりました。」と答え、深くは追及せず、「大変かもしれないけど一緒に頑張ろう。」と言ってくれました。

その新しい病院も予約ができない病院でしたが、先生をはじめ看護師の方が子供をあやしてくれたり、おもちゃを用意しておいてくれたり、その面で精神的にもとても通いやすい病院でした。

努力の結果1年かけてようやく妊娠

私の場合は、もう色んなことに期待や理解を求めることをやめようと思ったあたりから、運命が好転していったように感じます。気付かず抱えていたストレスが無くなっていったからなのでしょうか。その後は再び生理のたびに病院へ行く生活となりました。

子宮内膜の厚さを見てもらい排卵日のおおよその予測をたて、その予測排卵日が近くなると再び病院に行き採血をし、その血液を特殊な機械にかけてあと何時間後に排卵がくるかを正確に調べてもらいました。この機会を置いている病院が都内でも数件しかなく、この機械があることがこの病院を選んだ決めてでもありました。

そして先生から「〇日の▲時~▲時の間にタイミングを取ってください」と具体的な指示を受け、夫婦でタイミングを取るというのが私のルーティーンになりました。やみくもにタイミングを取り続けなくてもいいというのもストレスが軽減された一つでした。

でも夫の精子が劇的に改善したというわけではないので、もちろんすぐには結果は出ませんでした。期待するのはやめたと言いつつも毎月しっかりショックを受けていましたが、これだけ夫の生活改善をしているし、信用できる先生に私の体質もしっかりチェックしてもらっている、排卵日も正確に予測出来ているし、絶対いつか赤ちゃんが来てくれる!と自分自身を鼓舞しながらそれから半年間走り続けました。

そして、初めて産み分けの病院の門を叩いてから約1年後、やっと赤ちゃんが私たちの元に来てくれたのです。

不妊治療は夫婦の理解が大切

たった1年でと言われるかもしれませんが、私たちにとってはとても長い1年でした。

もう子供は授かれないのかという不安な気持ちに襲われたり、夫の発言にストレスを抱えたり、SNSで第二子第三子の報告をしている友人に嫉妬したり、感情がコントロール出来ない1年でした。

結果としては無事授かれたことに本当に感謝していますが、この不妊治療を通して強く感じたことは、もっと男性にも不妊について知識を増やしてほしい、小学校や中学校の保健体育の授業で男女関係なく妊娠出産・不妊についてしっかり知識を与えてほしいと思いました。

不妊治療は女性が頑張るものではなく、夫婦で同じ歩幅で歩んでいかないと絶対に途中で息切れをしてしまいます。息切れしそうになったら、立ち止まり夫婦でしっかり対話すること、これも大切だと思います。そして夫婦といえどもとは他人、意見の食い違いなんてあって当たり前なので、そんな時に頼れる存在を見つけておくことも大切です。理解してくれる友人に愚痴るでもよし、SNS上で救われるのもよし、私の場合はそれが病院の先生でした。

ちなみに余談ですが、夫に妊娠を告げると「ほらやっぱり俺の言う通りじゃん!俺に問題なかったんだ!」と言っていましたが、心の中で飛び蹴りをかましつつ「そうだね。」とだけ言っておきました。

今不妊治療に挑んでる方、これから挑む方、また不妊治療とは関係ない世界にいる方にも私の経験が何か考えるきっかけになれば幸いです。

ももちゃん
みなさまの妊活がうまくいくことをお祈りしております。

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